羽化 4

 

ごくやわらかな風の吹く夜だった。腰をおろした長椅子は石製で、薄い夜着ごしに伝わるひんやりとした感触が心地よい。すこし離れた場所に立っている景麒がなんだか所在なさげで、隣にひとりぶんあいた空間を手で示して言ってやる。
「どうぞ」
無言で一礼した景麒はどこか居心地の悪そうな表情のまま、長衣の裾を音もなくさばいて腰をおろす。どこまでも優美なしぐさだった
「お怪我をされましたか」
「ちょっとね」
言って差しだした右手をひらくと、そこには銀の蝶がのっている。
「これは冬器ですね」
「わかるのか?」
王に傷を負わせられる刃物は冬器しかない、それは景麒も承知している。わかるのか、知っているのか?この蝶を。陽子はそう問いたかった。
「護身用にもならない玩具ですね。暇をもてあました冬官が作ったものでしょう。古いもののようですが、よくできている」
口ぶりからして初めて目にするようだった。がっかりしたようなほっとしたような奇妙な気分がして、自分がなかば本気で予王の形見だと思おうとしていたことに気がついた。
「あちらでは、蝶は死者の魂が化身したものだと言うことがある。蓬莱のというよりは崑崙の言い伝えだけど」
「死者の?」
「そう。だからかな、予王のものかと思ったんだ」
息をのむ気配がした。様子をうかがっていると、やがて静かな声が返ってきた。
「ことによれば、そのとおりかもしれません。蝶や花や、あの方はそういうちいさなものを愛おしむところがおありだった」
曖昧な言い方が気になったが、すぐにそれも仕方のないことだと気づく。景麒が予王に仕えたのはただの六年、そのはじめは遠ざけられ、あとでは病の床にあったのだ。知らないことが多くても当然なのかもしれなかった。
「どんな方だったんだ?この国の前の王なのに、私はほとんど知らされていない。よければ話してほしい」
今度ははっきりと戸惑う気配があった。めずらしいことだ、この沈着冷静な半身にあっては。
「主命であれば」
そのみじかい答えに陽子は思わず景麒の顔をふり返った。
命じたのではない、頼んだのだ。そう言おうとしたが言えなかった。もちろん景麒はわかっている。それにこれはたしかに偏屈な麒麟だが、このようなときに当てつけを口にするようなことはしないはずだった。
つまり景麒は動揺しているのだ、陽子の言葉に。
なぜ動揺しているのか。悟らせたくないからだ、その心の底にあるものを。
知りたい。
陽子は思った。
なぜなら陽子も王だからだ。
今はまだ考えられないが、いつか自分も予王のようにこの金波宮を去る日がくるだろう。もちろんそのときには景麒をのこしてやりたいと思う。けれどその王としての輝かしい意思に追いやられながらも、無視できない小さな声がある。声は言っている。悲しんでほしい。
いつかわたしが消えるとき、ひとりでいい、心の底から悲しんでほしい。
そうすればこの背負いきれないほど大きな荷を背負わされた山登りを、少しましな気分で続けていけるはずだから。
右手をかるく握りこむ。そこには銀の蝶がある。蝶は死者の魂だ。
ふり返れば金波宮がある。視界におさまらないほど広大なここは壮麗な死者の城だ。耳をすませば幾百幾千幾万の蝶のはばたきがきこえてくる。
ここに起居する者の多くは寿命を持たない。死の影は巧妙に隠されている。予王もここで亡くなったわけではない。けれど陽子の生まれ育ったかの国では、そのような場所をこそ常世と呼び、彼岸と呼ぶ。一度渡れば戻ってこられない川の向こう岸、それがここなのだ。
陽子は虚海をこえ、川をこえた。耳元に予王の息づかいが聞こえてくる。
「予王を、徐覚さんをみつけたとき、嬉しかった?」
わずかに頷き、それからもう一度大きく頷いた。
「麒麟ですから。それは」
景麒は嬉しかったのだ。思いがけずあたたかなものが胸に広がる。
「あの方は王に向いていない、それはすぐにわかりました。それでもわたしは嬉しかった。向いていないのならわたしが支えてさしあげればいい。もとより玉座は王おひとりで負うものではありません。わたしは半身なのですから、その責の半分はわたしがひきうけるつもりでした」
今より少しだけ明るい顔をした景麒が、商家の前で店の掃除をしていた前掛け姿の徐覚に礼をとる。みつけた、あなただ。徐覚はその金色の鬣に見惚れて声も出せない。そのうちに金色は徐覚の足元に頭を垂れ、おもむろに誓約の言葉を述べはじめる。
「わたしは気負いすぎていたのでしょう。やがてあの方はわたしを疎んじ、政務の場にもおいでにならなくなりました。わたしはなおも焦り、やがて、」
静止の意図をこめて陽子は景麒の手をとった。握り返してくる力はない。その先は何度となく耳にしていた。景麒が責任を感じるのも無理はない、けれどそれは仕方のないことだ。誰を責めるべきことでもない。
うつむいた横顔がやけに幼い。同い年の男の子を見ているようだ。
「徐覚さんが亡くなったとき、悲しかった?」
男の子は顔を上げると、不思議そうな顔で陽子を見た。
「悲しい?いえ、それは。わたしは麒麟ですから」
「あたらしい王を探さなければと」
陽子は瞠目した。男の子はなおも続ける。
「国中を丹念に探していきました。けれど王気はどこからも感じとることができなかった。やがてわたしは蓬莱に希望を向けることとなり、雁国延王にご助力を願ってー」
「待って、景麒」
たまらない、こんなこと。
目の前のこれは、慈悲の獣ではなかったか。
慈しみ悲しみを垂れる仁の獣ではなかったか。
「麒麟は悼まないのか、王の死を。悼むためのわずかな時間もゆるされないのか?」
麒麟の涙は民のためにしか流されないのか。
そんなことはないはずだ、そう言おうとして突然陽子は悟った。
自分だ。
短命の王が続いたこの国の王宮で、麒麟だけが孤高でいられただろうか。宰補とて政治の枠組みからは逃れられない。暗君をしか選べなかったことを的にして裏で罵る人間はいくらでもいただろう。そんな中にあって、誰が景麒へ悠長に亡き王を悼む時間をくれただろう。温情は上から下に流れるものだが、空位の時代に麒麟より高い地位にある者など、少なくとも心情的にはいないはずだ。
だから自分だけなのだ。景麒へ、亡き先王を悼む機会を与えられるのは。
「景麒、おまえ自身の話をしているんだ。国のことでも民のことでもない。悲しかったんだろう?予王が亡くなって」
陽子の手の中で景麒の指先がちいさくわななく。
「あの方を、選ばなければと考えたことはありません。ですが私が選んだばかりにあの方も、この国の民も、官たちも迷わせてしまった。それがわたしには悲しかった。取り戻さなければと思いました
「新しい王を?」
「はい。これはその当時も話したことです」
それはたしかにそうなのだろう。いかにも麒麟の考えそうなことだ。けれど陽子が気になってしかたがないのはそこではない。
「それならどうしておまえは泣いているんだ」
こちらをふり返った景麒は声もなく涙を落としている。
陽子はその姿をなにか尊いもののようにみつめていた。



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