羽化

 それは翅をやすめた蝶を横からそっと捉えたような意匠だった。優美な曲線をえがいた背と、そこからのびた翅が接するせまい角の内側だけが刃物になっている。ここに紙をしのばせたまま手を引くと、どんなに頑丈な封もきもちよく切れた。でもまさか、それが冬器だなんて思わなかった。

「主上にかかればこんな小さな傷のひとつ、身を飾る玉とかわりはないでしょう。それも眺める間もなく癒えてしまう」
「わかっている。もとよりこれはわたしのためではないよ」
たしかに痛みはさほど感じなかった。それでも親指のつけ根に巻かせた白い布は、おのれの血にすら病むという陽子の半身のためのものだ。
「こんなもので用が足りるのかはわからないけどね」
麒麟は穢れを嫌うというが、たとえば血ならあの鉄くささを嫌悪するのか、それとも気配とでもいうべきものを嫌悪するのか。どうも後者のような気がするが、陽子だってそれを好いているわけではない。けれどこの汚いものなど何もないような王宮にいると、無性になつかしくなることはあった。
一礼して部屋を辞す浩瀚を横目で見送りながら、陽子はそっと白布を鼻にあてて血の気配をさがす。眉をしかめる半身の顔がちらりと瞼をかすめた。

夢を見たような気がして目が覚めた。覚めたときには忘れていた。けれど乾いた喉を潤そうとのばした手は、水差しではなくあのちいさな冬器の蝶に触れた。鱗粉をこぼしたような月明かりの下、閉めわすれた帳のすきまから飛び立ってしまいそうなそれをつまみあげたとき、ふとこれはこの部屋の前の住人の持ち物かもしれないと陽子は思った。
「そんなわけはないか」
歴代の王がみな同じ宮を使ってきたわけではない。広大なこの後宮で、予王と自分が同じ部屋に起居していると考えるほうがおかしいだろう。
「よくできてるな。本当に生きているみたいだ」
目に映るものすべてが濃淡の影に返る夜が陽子は好きだった。こちらの美醜感覚にもだいぶ慣れたが、それでも生成りの地には必ず塗料をほどこした余白のない調度に囲まれていると、ときどき息が詰まった。色のない銀細工のような蝶は、この夜の幽かな光にこそ生気を取り戻すようだ。わずかに親しみがわいた。
思い出して左手を見た。おとなしく巻かれたままになっていた白布をほどくと、蝶のいたずらは夢のように消えている。いつもながら呆気ないほどだ。
「まるで、なかったことのようだな」
昼間の傷も、いなくなった前の住人も。
ふとそんな物思いにとらわれたのは、今が死気の極まる深夜だからだろう。官たちもあの生真面目な半身もおそらく疲れて眠っている。ならば許されてもいいだろう、この私的な感傷も。陽子はこの蝶を予王の形見と思うことに決めた。

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