会えると思ったわけではなかった。けれども眠気はとうにどこかへ去っていたし、あのまま広い部屋でひとり物思いにふけるのはたまらなかった。気がつけば足はしぜんに仁重殿へと向かっていた。
さすがにひとり歩きとはいかなかったが、ふりかえれば顔見知りの不寝番はつかずはなれずの距離をたもってくれている。まだ若い胎果の女王が眠れぬ夜に何を思うのか、もしかすると大僕あたりに含み置きされているのかもしれない。どちらへ、と一言きいたきり開かない口のかたさが有り難かった。
夜の雲海へ張り出す露台へと足を向けながら、陽子はすこしずつ記憶の中へ入っていく。あれはまだこの金波宮へ入る前、偽王のもとから景麒を助けだしたときのことだ。
「もう一度お目にかかれるとは思っておりませんでした」
陽子にそう言ったあと、景麒はもう一度誓約をやりなおしてみせた。必要があったわけではない。ただお互いのためにそうしたかっただけだ。だから他の誰に言うこともなかったし、どこに記録されることもなかった。秘密というなら、これは王と麒麟だけの秘密だった。
わずかに甘美な回想から陽子を引き戻したのは、右手に隠したちいさな傷口だった。引き攣れるような痛みをともなって、それは聞いたことのない予王の声でこう言う。
「どんな思いで?」
初めて据えた王を失道のはてに亡くし、ようやくみつけだした新しい王からは引き離され、宰補の位にありながら偽王の暗躍をゆるし、あまつさえ虜囚となって王と他国の兵をわずらわせた。麒麟の誇りなどどこに残っていただろう。思い至って唇を噛む。
露台の手すりに身をあずけ、まっくらな雲海をのぞきこむ。はるか下にひろがる曉天の街、そこにともるわずかばかりの灯りも、この高さから確かめることはできない。
「そこで何をしておいでですか」
背中へかけられた声にふり返ると、そこには件の麒麟がいぶかしげな表情をうかべて立っていた。音をたてずに歩くのは彼の癖で、気配はしなかったが特に驚きもしない。呼んだわけではもちろんないが、来てもおかしくないとは思っていた。
「眠れなくてね。夜風にあたりにきた」
そう言い訳しようと思ったのに、口をついて出たのはちがう言葉だった。
「おまえのことを考えていたんだ」
言って景麒の顔を見上げる。虹彩の薄い眼がきらりと月明かりをうけてひらめく。
「話をしよう。わたしたちの話を」
国のでもなく、民のでもなく、わたしとおまえの話をしよう。
夜はまだ長いのだから。
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