羽化 4
ごくやわらかな風の吹く夜だった。腰をおろした長椅子は石製で、
「どうぞ」
無言で一礼した景麒はどこか居心地の悪そうな表情のまま、長衣の
「お怪我をされましたか」
「ちょっとね」
言って差しだした右手をひらくと、そこには銀の蝶がのっている。
「これは冬器ですね」
「わかるのか?」
王に傷を負わせられる刃物は冬器しかない、それは景麒も承知して
「護身用にもならない玩具ですね。暇をもてあました冬官が作った
口ぶりからして初めて目にするようだった。がっかりしたようなほ
「あちらでは、蝶は死者の魂が化身したものだと言うことがある。
「死者の?」
「そう。だからかな、予王のものかと思ったんだ」
息をのむ気配がした。様子をうかがっていると、やがて静かな声が
「ことによれば、そのとおりかもしれません。蝶や花や、あの方は
曖昧な言い方が気になったが、すぐにそれも仕方のないことだと気
「どんな方だったんだ?この国の前の王なのに、私はほとんど知ら
今度ははっきりと戸惑う気配があった。めずらしいことだ、この沈
「主命であれば」
そのみじかい答えに陽子は思わず景麒の顔をふり返った。
命じたのではない、頼んだのだ。そう言おうとしたが言えなかった
つまり景麒は動揺しているのだ、陽子の言葉に。
なぜ動揺しているのか。悟らせたくないからだ、その心の底にある
知りたい。
陽子は思った。
なぜなら陽子も王だからだ。
今はまだ考えられないが、いつか自分も予王のようにこの金波宮を
いつかわたしが消えるとき、ひとりでいい、心の底から悲しんでほ
そうすればこの背負いきれないほど大きな荷を背負わされた山登り
右手をかるく握りこむ。そこには銀の蝶がある。蝶は死者の魂だ。
ふり返れば金波宮がある。視界におさまらないほど広大なここは壮
ここに起居する者の多くは寿命を持たない。死の影は巧妙に隠され
陽子は虚海をこえ、川をこえた。耳元に予王の息づかいが聞こえて
「予王を、徐覚さんをみつけたとき、嬉しかった?」
わずかに頷き、それからもう一度大きく頷いた。
「麒麟ですから。それは」
景麒は嬉しかったのだ。思いがけずあたたかなものが胸に広がる。
「あの方は王に向いていない、それはすぐにわかりました。それで
今より少しだけ明るい顔をした景麒が、商家の前で店の掃除をして
「わたしは気負いすぎていたのでしょう。やがてあの方はわたしを
静止の意図をこめて陽子は景麒の手をとった。握り返してくる力は
うつむいた横顔がやけに幼い。同い年の男の子を見ているようだ。
「徐覚さんが亡くなったとき、悲しかった?」
男の子は顔を上げると、不思議そうな顔で陽子を見た。
「悲しい?いえ、それは。わたしは麒麟ですから」
「あたらしい王を探さなければと」
陽子は瞠目した。男の子はなおも続ける。
「国中を丹念に探していきました。けれど王気はどこからも感じと
「待って、景麒」
たまらない、こんなこと。
目の前のこれは、慈悲の獣ではなかったか。
慈しみ悲しみを垂れる仁の獣ではなかったか。
「麒麟は悼まないのか、王の死を。悼むためのわずかな時間もゆる
麒麟の涙は民のためにしか流されないのか。
そんなことはないはずだ、そう言おうとして突然陽子は悟った。
自分だ。
短命の王が続いたこの国の王宮で、麒麟だけが孤高でいられただろ
だから自分だけなのだ。景麒へ、亡き先王を悼む機会を与えられる
「景麒、おまえ自身の話をしているんだ。国のことでも民のことで
陽子の手の中で景麒の指先がちいさくわななく。
「あの方を、選ばなければと考えたことはありません。ですが私が
「新しい王を?」
「はい。これはその当時も話したことです」
それはたしかにそうなのだろう。いかにも麒麟の考えそうなことだ
「それならどうしておまえは泣いているんだ」
こちらをふり返った景麒は声もなく涙を落としている。
陽子はその姿をなにか尊いもののようにみつめていた。
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