握っていた手はそのままに、あいたほうの手を景麒の顔へとのばし、届かずにためらったあと立ち上がる。あんなにも幼く見えたのに、抱いてやるには背丈も腕の長さも足りない。しかたなく陽子はその流れるような鬣ごと景麒の肩をかかえこんだ。
なれないしぐさはぎこちない。震えているのがどちらなのかもわからなかった。それでもこれで正解だと思えたのは、閉じた瞼になつかしい母の姿を見たからだ。
半信半疑の包容からすっと力が抜けていく。するとなんだか腕の中の大きな男がとたんに可愛らしく思えてきた。
「離れてください。お召し物が汚れます」
どこまでも生真面目な半身が言う。
「麒麟の涙ほどきれいなものはほかにあるまいよ」
笑ってやると黙りこむ。見なくてもわかる、あの憮然とした顔をしていることだろう。ほっと息をついてもう一度言ってやる。
「景麒、おまえは悲しかったんだ。そうだろう?」
「ええ、そうだと思います」
今度は素直な首肯が返ってきた。
「予王を悼む者はこの城には少なかった?」
「側仕えの女御たちも城を追われたあとでしたから」
「そうか。・・・淋しいものだな」
だが故郷にのこされた家族は違ったのだ。国と麒麟と天とに怒りをぶちまけるしかなかった王の妹は、決して反乱分子に躍らされるだけの人形ではなかった。むしろ利用されたのは諸候たちの方だろう。彼らを引き寄せたのは、徐栄の暗く深く根強い怒りの重力だったはずだ。
「おまえは予王を悼んでいい。それはわたしへの裏切りにはならない。なぜならわたしは予王だったかもしれず、予王はわたしだったかもしれないからだ。わたしも予王を悼みたい。予王だけでなく、この国をつくってきたすべての王を」
顔をあげた景麒の頬にはまだ涙の跡が光っている。それをみつめて陽子は言う。
「わたしの生まれた国にも王がいた。といってもきっと、景麒の考えるような王ではないんだけどね。あの国の王のいちばん大切な役目は鎮魂、たましいをしずめることなんだ」
「魂を鎮める?」
「そうだ。怨みをのんで死んだ者の魂をいたわり、豊かに死んでいった者の魂をことほぐ。死者はやがてすべてのしがらみから解き放たれ、カミとなって国を守る」
それは実感から出た言葉ではなかった。じっさい陽子も自分の口から出てくる言葉だとは思えずに驚いていた。けれど喋りながら、これが欺瞞でないこともわかっていた。今までそうと知らずに生きてきたが、これはあの国に生まれ育った者が身にしみて持つ感覚だった。
「この国の人々はあまり死者に想いをかけないね。生きるのに精一杯ということもあるだろうけど、根にある感覚から違うのかもしれない。景麒はどう?死者の守る国というのは気味が悪いだろうか」
すこし考えるふうをしたあと、景麒は首を振ってみせた。
「いいえ。死んだからといって慶の民が慶の民でなくなるわけではありません。彼らがどこかで見守っていてくれるなら、のこされた者も心強く思うでしょう」
景麒はいつのまにか幼さを脱ぎ捨てて、もとの青年然とした顔に戻っている。陽子はやや居心地の悪い思いでその肩から腕をはなし、一歩の距離をとった。
「おまえだって慶の民だよ、景麒。半身が玉座のためにあるなら、のこりの半身は民として自分自身を生きるためにある。わたしが民と言うとき、それを忘れないでいてほしい」
若い王の真摯な声に胸をつかれ、景麒はごくあたりまえのしぐさでその場に叩頭する。声にならない言葉のかわりに、耳の奥ではいつかの景色がこだまする。玻璃の砕ける高い音、妖魔の上げるおぞましい鳴き声、自分を見返すあるじの眼には恐怖と拒否の強い色。
それでも景麒は嬉しかった。曖昧だった感覚が研ぎ澄まされ、溶け消えそうだった体が形を取り戻す。全身を否定でいっぱいにした少女に、理性はどこかでため息をついた。けれどもそれはほんの一瞬で、素直な四肢はすぐに喜びで満たされる。長わずらいの床で萎えていた体もこのときばかりは病を忘れた。
紫水晶の瞳が露草の色にきらめき、陽子は夜明けが近いことを知った。
「あの方が去ったあと、王気を探して尋ね歩いた長い旅は、扉をひとつずつ閉じられるようなものでした。すべての扉を閉ざされた暗い部屋に、あのときわずかに光が差した。それを見上げてはじめて、わたしは天井のない部屋にいたことを知りました」
跪いた姿勢はそのままに、この世でもっとも慕わしいひとの顔を見上げる。
「あの国であなたをみつけるのはたやすかった。光の差すみなもとを辿るだけでよかったので」
その表情が読めないのは、背後からのぞいた朝日のせいか、それともそのひと自身が放つまばゆい王気のせいなのか。
声にならなかった心がようやく音をともなって喉から転がり落ちてくる。
「御前を離れず、招命に背かず、忠誠を誓うと、誓約申し上げる」
この全身を満たす光の泡は、ちいさく弾けながらただひとつの答えを待っている。これで三度目だなと笑いながら、それでもあたたかく勁い声で。
「ゆるす」と。
了
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