こもりく
こもりく
席をたつ王が去りぎわに一瞬だけ投げてよこす視線。それを受けた
今日がいつもと違ったのは、王と麒麟に続こうとした冢宰がふたり を見失ったこと。本来なら血眼になって探すべきところだが、赤王 朝の誇る切れ者冢宰はすぐに気がついた。うず高く積まれた未裁可 書類、その頂上に載せられた王の真筆に。
彼は台補顔負けの重々しいため息を吐いてこう宣言する。
「主上は本日これよりえすけいぷなさる」
呆気にとられた顔をひとつひとつながめわたし、短く続けた。
「これにて解散!」
「みんな行った?」
「そのようですが」
壁のように巨大な衝立のかげ。ほどこされた彫刻に指をあてながら 、先ほどまで聞こえていた足音へと耳をすませている様子の主に答 える。使令がいればそんなことをする必要はないのだが、こちらは あいにく「すこしだけいないふりをしてもらって」という、 簡単なようで難しい王の依頼に従わせている。
みずから暇をとろうとしない冢宰をすこし休ませたい。主の言葉に 応とこたえはしたけれど、それがどうしてこのような自体になって いるのか景麒はよくのみこめないでいる。
「主上」
「わかっている。こんなことをすればかえって浩瀚の手を煩わせる だけだと言うんだろう」
「おわかりならどうして」
「手は打ってある。浩瀚も今日はあきらめて休むしかないだろう」
「なにもこんな官たちを騒がせるような真似をなさらずとも」
「おまえのそういうところだよ」
こちらをふり返った主は思っていたよりも真剣な顔をしていた。
「わたしたちは真面目すぎるんだ。もうすこし肩の力を抜いていか ないと、官たちも息苦しくなる」
「雁から賓客がいらしたとは聞いていませんが」
「大恩ある隣国の王だぞ」
言いながら笑っている。上気した頬が町娘のようだ。
「景麒もまだまだだな。遠甫だよ」
一瞬だけ息をのむ。驚きよりも納得のほうがいくらか強い。
「本当をいうと、これはわたしへの課題なんだ。官たちを出し抜い て冢宰を休ませること。ついでに他愛のない騒ぎでも起こして新し い風を入れてみよ、と」
「なるほど」
たしかに太師の言いそうなことではある。そしてその課題へ大真面 目に取り組むのだ、この王は。
「あ、いま笑ったな?おまえも一蓮托生なのに」
「もちろんです。わたしはあなたの半身なのだから」
こんな朗らかな気配も王気のうちだろうか。とまどいと誇らしさが くすぐったくて、景麒はまたすこしだけ笑った。
「そろそろ使令を戻しても?」
王としては驚くほど簡素とはいえ、折衝上手な女史が丹精した装束 を身につけた主だ。それを無造作に床へと投げ出し、膝立ちになっ ている姿は宰補としてやはり残念だった。隣の景麒はなぜか正座で あることだし、これはあまり官たちに見せたい姿ではない。だが使 令に探らせればこのまま人目につかずに移動することは簡単だろう 。
「まだいいよ」
言ってふり返った主の頬がまだすこし赤いのは、ここまで走ってき たからだろうか。考えているとそっと袖をとられた。いぶかってい ると膝をわずかに詰められる。こちらを見上げて主が言う。
「わたしたちもすこし休もう」
見返した目がかすかに揺れて、ようやく景麒は理解した。自分の主 がなにをのぞんでいるのかを。どうも自分はこういうことに鈍くて いけない。
「これは失礼を」
「いちいちあやまるな。かえって恥ずかしい」
言いながらまたいざり寄る。もう距離と呼べる隙間はなかった。こ れ以上このかたに矜持を折らせてはいけない。景麒はそっと腕をあ げ、そっぽを向いてしまった主の顔を上向かせる。
「触れても?」
「訊くな」
承知とばかりに懐の中まで迎え入れる。休息はもちろんこのかたに こそ必要だ、望むことならなんでも叶えてさしあげたい。さしあた ってはくちづけを。
たたんでいた膝をくずして壁に背をあずけると、両足のあいだに主 はすっぽりとおさまった。相手は膝をついているから、景麒はその 顔を見上げるかたちになる。ふだんとは逆の目線ではあるけれど、 心情としてはこのほうがよほどしっくりときた。
あらためて背に腕をまわすと、花を手折るようにやすやすとその身 が寄せられる。梳きおろされた髪がふりかかり、 視界があざやかな茜に染まった。こちらをとらえた双眸はみどり、 湖畔の深みがさざなみをたてている。その下で、少年のように無欲 なくちびるがなにかを訴えるかたちで静止している。
王のゆるしを得た麒麟はつよい。背なをなであげた手は主のしなや かなうなじをとらえ、景麒はほんのすこしのびあがるだけでめざす 場所にたどりついた。
はじめはただ触れるように、言葉ではなくしぐさで訊く。落ちてく るくちづけがこたえる。応。
もういちど迎えにいく、今度はもうすこし奥まで。くりかえしくり かえして気づいたころにはもう深みだ。主は膝から芯をぬかれ、 その身を半身の胸にあずけてしまった。子どものように折りたたん でしがみつく両手がいとおしい。
「主上。使令を戻してもよろしいか」
場所を変える必要がある。
今度は王も否とは言わなかった。
回復のはやい仙の体とはいえ、睡眠をおろそかにして務まるほど国 政はあまくない。前にこうして過ごしたのがいつだったか記憶はも う曖昧だ。さらにここが正寝のどの棟にあたるのかも漠然としかわ からない。雲を踏むようにして辿りついたのだった。
ふだんの堂々としたふるまいが嘘のようにおとなしくなってしまっ た主。ずいぶんとちいさく見えるそのひとを寝具のふちに座らせ、 正面にひざまづいて覗きこむ。こちらを見て声もなく笑った。する と体の底からわきあがってくるなにか、ふだんは満たされるだけで やすらぐそれが、あふれてくる感覚がある。いまはそれをこのかた に示すときなのだ。あなたにどれだけ満たされ、 やすらぎをもらい、それに感謝しているか。それなのに足りないも のがあると伝えても、しかたのないやつだと笑ってくださるのでし ょう?
膝のうえに揃えられた手をとり、隣に腰をおろす。頬にかかる髪を 耳にかけてやると目尻が赤い。そのままふわりとおとしたくちづけ は、泉に沈む小石のように深く深くのみこまれる。追いかけていく と寝具が目前に迫っていて、わが身の重みを思い体を引くと今度は さかしらに追いかけられた。そのまま場所を入れかわり、気がつけ ばいつのまにやら下に敷かれている。みると主が笑っている、 それはとても満たされた笑みだ。またなにかちいさな泡のようなも のが体の内側をくすぐりながらあがってくる。 あふれてとまらなくなる。景麒はもう笑ってはいられない。
主の手が景麒の襟元にかかり、もつれそうな指でくつろげにかかる 。そのようなことは自分で。けれどもなぜか景麒の指ももたついて いる。みるとその間に主のほうも自身の帯を解きにかかり苦戦して いる。思えばこのような昼日中にこのような姿で向かい合ったこと はない。主もそれに気づいたのか、どちらともなくまた笑った。
「どうぞそのままで」
言ってその手にわが手を重ねる。それは惜しくてもったいないこと のように思えたのだ。見返してくる眼がなぜと問う。 答えるかわりにまたくちづける。
このようなときの作法など心得てはいない。おそらく主もおなじだ ろう。かつて求められたことはあった。応じなければと考えたがで きなかった。関節が凍りついたように動かず、触れられた景麒は溶 け落ちるように転変した。逃げるように姿を変えたのは雛のころ以 来だった。もちろん景麒自身が意図したことではなかった。
いま起きていることはどうだろう。主の指が襟にかかり、あばかれ たのは肌であり肌ではない。みせたいのはその奥にあるなにかだ。 触れられることは喜びだが、ほしいものはその先にある。 だから景麒もさがしにいく。こまやかな睫毛のふち、 汗ばんだ髪のはえぎわ、すんなりとした鎖骨のあわせ目。その下の ふくらみに手をかけるさい、思わずぬすみ見た顔と目が合った。 口をひらこうとして遮られる。このかたが訊くなと怒ってみせると きは、訊くまでもないという意味だ。 わかっているのに確かめてしまう、それは本当に信じられないよう なことだからだ。麒麟が王を求めるのと同様に王が麒麟を求めるな どとは。それが過不足なくつりあうと感じられるなどということは 。
景麒にとって己の意思とはすなわち天意である。そこに疑問の余地 はない。けれど今ここにいてこの肌に触れよろこびを感じているの は景麒自身だ。主の熱いてのひらがぺたりと胸の上に置かれる。鼓 動をたしかめているのだろう。おまえは天意を下すための機関では なく、肉体と感情といのちを持った生きものなのだと言っている。 そういう自分でよかったと景麒自身も心から思う。主の手をとって 耳をふさぎ、残った耳をそのひとの胸にうずめる。あなたが国と民 のための機関ではなく、豊かな感情とはずむ肢体をもつ生きもので よかった。聴こえてくる心音にそう告げ返す。あまやかな気分がふ たりを満たしていく。
王には王気があり麒麟にはそれがわかるという。それでは麒麟のこ れは何だろう。この気配に、気配の色とでもいうべきものに名前が ないのは、これまで王にしか知られずにきたからだろうか。それと もわが麒をわけてもいとおしく思う自分だからそう感じられるだけ だろうか。陽子は目の前の肩に腕をまわし、引きよせてくちづけた 。
きめ細やかでしっとりとした感触がおいしそうで舌を這わせる。噛 みついてからそれが鎖骨だと気づいた。班渠よりわたしが先に食べ ちゃったな。おかしくなってすこし笑う。うれしくて、 おかしくて、すこしだけかなしい。だから笑う。
制服を着ていたころが遠い昔のようだ。脱いでもいないのに大人に なってしまった。いや、脱いでいるんだけどね、いま。
迷子になりそうな心をみちびくように景麒がふれる。指で唇で、首 すじにわき腹に太ももに。感触が心をつなぎとめる。自分が今いる のはこの腕の中だ。見上げればおどろくほど端正な顔が陽子をのぞ きこんでいる。これで正解か、 間違ってはいないかと問いかける眼だ。たまらなくいとおしく、 いじらしく、すこしだけかなしくて笑う。おまえのやることならす べて正解。おまえでなければすべてが間違いだ。こちらはとうに信 じてまかせてしまっているのに、何がおまえを不安にさせるという のだろう。
周辺でとまどっていた景麒の指がやっと心を決めたようだ。ほんと うはもうずっと待っていたそこにやっとのことで辿りつく。こんな ときは顔を見ない、そんな配慮がすこし腹立たしい。
感触をたしかめる指の腹、なであげられて息をのむ。どうしてこん な感覚が?子を成せるわけでもないはずなのに。世にも稀なる美し い指に、と思う間もなくそれは動く、ぬりひろげるように。 なにかにふれて声がもれる。もれてあふれてとまらなくなる。 ああなんて陳腐な。こんなこと、わが身に起こることとは思わなか った。わが身、白い肌と赤茶の髪と茶色の眼。あちらの体は何も知 らぬままなのか。子を成さぬこの体は血を流すことはなかった。あ ちらの体なら流したのだろうか。けれどすぐに思考は途絶える。あ の美しい指がうかがうように侵入してきたのだ。そしてゆっくりと かきまぜはじめる。すべての関節が溶かされていく。 指はそっとささやいている。このからだ、 このこころこそがあなたの居場所。
それからまた気の遠くなるような時間をかけて景麒のすべてを迎え 入れたころ、陽子の意識はとうに思考を手放していた。
まどろみの中で祖母の声を聞いた。
―あなにやし、えをとこを。
―あなにやし、えをとめを。
なぞめいた言葉の響きには覚えがあった。絵本だ。
―まあ、なんていい男でしょう。
―おお、なんといい娘だ。
天まで届く柱を巡り、出会った男女はそう語り合う。これは国生み 神話だ。祖母が読んでくれた古い古い絵本が瞼に浮かぶ。
―それじゃあだめだよ。
―そうだね。順番が逆だ。
幼い自分と懐かしい祖母の声がする。
おばあちゃんの顔が見たい。そう思うのに見えてくるのは絵本の古 い挿絵だけだ。いかにも古くさくて子ども好きのする絵ではないが 、勢いのいい筆の力強さについ見入ってしまう。
―生まれてきた子は三年たっても足が立たなかった。男神と女神は 相談して、舟に入れたその子を流してしまうことにした。
―自分たちの子どもなのに。
流されたのは舟だったのか。あちらからこちらへくるのだから、卵 果でないのは当然か。声を聞きながら考える。
―あなにやし、えをとこを。
ふわりと目が覚めた。
いつのまに着せかけられたのか。袖は通していないものの、肩と胸 元はそれなりに布で覆われている。あまり時間は経っていないよう だ。目の前の景麒は額にひとすじ鬣をはりつかせている。
「わたしからだった、おまえのもとへ行ったのは。呼ばれたからじ ゃない」
言うとすぐに目をあけた。眠ってはいなかったのだろう。
「なにがです?」
「はじめてのときだよ。こういうことの」
いきなりなにを、という顔をする。表情豊かになったものだ。
「来てくださったのはあなたからでした。けれどもそのあとはわた しも望んだこと。おなじことです」
「そうだったな」
どうでもいいことだ。今までは気にすることもなかった。
「古い古い物語を思い出したんだ。こちらでもあるのかな。この世 がどうやってできたかという、昔話なんだけど」
真摯にこちらをみつめる紫の眼が美しい。雨の朝の露草の色だ。ま あ、なんていい男でしょう。
雑誌を広げて指差してはさざめきあう級友たちの姿を思う。かつて は自分もそこにいた。けれどもまさか、こんなところでこんなこと になっていようとは。過去へ戻って言い聞かせてみても一笑に付さ れるだけだろう。
「男神と出会った女神は言うんだ。なんていい男だろう。めでたく 結婚したふたりは子を授かる。けれどもその子は三年たっても足が 立たない。ふたりは相談してその子を舟に入れて流してしまう」
紫の双眸がわずかにすがめられる。けれども口を挟まないのは、待 っているからなのだろう。陽子が次に何を言うのかを。
「ふたりにお伺いを立てられた天はこう応えるんだ。先に声をかけ たのが女だったからいけない、男から先に声をかけるようやりなお せ」
それがどうのと言い出すつもりはもとよりない。自分たちがこうし ていることを間違ったことだとも思わない。ただ単純に重ねただけ だ。子を成すことのない自分たちの行為と、流されてしまった神の 子を。
「里木に祈れば子を授かる。それなのにどうして抱き合うんだ?」
生殖に必要のない衝動がどうしてこの身に宿るのだろう。陽子はそ っと腕をもちあげ、目の前の男の頬にふれる。金のたてがみ金のま ゆ金のまつげ。つくりもののような紫の眼と、かげりを知らない陶 器の肌。こうしてふれてみなければ、血のかよう生きものだとも思 えない。けれど陽子はこの美を愛したわけではない。
憮然とした表情、取りつく島のない話し方、平坦で感情をうかがわ せない声の質。そこに美貌が合わさると、敬遠したくはなっても愛 着はわかない。ただ毎日顔を合わせて接していれば、自然と伝わっ てくることはある。
あるとき無駄のない頬の線がほんのすこしゆるんだ。視線を追うと 花瓶を抱えた女御が笑っている。背を向けた彼女は遠景でこちらに は気づかないが、それが先日なにかきつい叱責を受けて泣いていた 女御とおなじ髪型おなじ簪をしていることに遅れて気づく。ふり返 ると景麒はもうそちらを見てはおらず、官の持ってきた書状に目を 通している。
またあるときは眉間にあさいしわをよせて茶器をかたむけている。 それは多忙をきわめる台輔を気づかった黄医が特別によこしたもの で、すすめられた景麒は殊勝な礼をのべていた。それが二日三日と 続くうちに口数がへり、血色をました顔色とはうらはらに表情はけ わしくなっていった。
そんなささいな変化に気づいたら面白くて、いつのまにか観察する ようになっていた。そうして鮮やかに知ったのは、そんな景麒がも っともいきいきと美しくなるのは、他でもないこの自分を前にした ときだということだった。そうか、これが麒麟というものか。 胸の中をざわりと風が吹き抜けた。麒麟が王を慕うとはこういうこ となのか。
知ってみればこれほど豊かな情感を持つ生きものは他になかった。 ただ景麒自身がおのれの情に無頓着で気づいていないだけなのだ。 国の民の自然の変化に、陽子の何気ない一言に、いちいち一喜一憂 している忙しい生きものが景麒だった。それを当人にすら隠す面の 皮一枚は、陽子のくちづけひとつで簡単に剥がれ落ちることも知っ た。
陽子は撫でていた指を頬からくちびるへと移し、薄くてやわらかな それをそっとつまむ。しばし感触をたのしんでから見あげると、察 した景麒がふしぎな軽さで身をのりだしてきた。瞼を閉じて迎えて やる。
「あなたは子どもがほしいのですか?」
「そういうわけじゃない。ただ気になっているだけだ」
あちらでつちかった倫理観がいたずらをしているだけなのかもしれ ない。ほんのすこしのうしろめたさを感じてしまうのは。
「子を成せないのはわたしたちだけではありません」
「そうだな」
それに気づかない陽子でもない。
「けれどもこうしていると、そんなことよりも大切なものがあると 思えてくる。わたしはそれがうれしい」
言葉とくちづけが交互に落とされていく。しずまったはずの水面に さざなみが立ち、水底では獣の陽子がとがった耳をそばだてる。 そうだな、という返事は言葉にならなかった。
―でもね陽子。流された神様はそのあと常世へ辿りついて、そこを おさめなさるんだよ。
―常世って?
―天国のようなものだろうかね。
ぜんぜん天国じゃなかったよ、おばあちゃん。あちらとそう大して 変わりはしない。でもそういうものなのかもしれないね。
だんだんものを考えるのが億劫になってくる。からだは熱を思い出 し、もう一度あれをと頭をもたげる。熾火に送り込んだあたらしい 息吹は景麒がよこしたものだ。
「もう一度触れても?」
訊いてくる声もいっそ彼らしくていとおしい。
「ここでやめたらおしおきだ」
笑ってその背に腕をまわす。背骨の数をかぞえるように撫でてやる 。
―あなにやし、えをとこを。
こんなに可愛らしい男がいたら、女神だって思わず声をかけるだろ う。考える間にもまたひとつからだの芯を抜かれていく。きっとも う陽子のからだはくらげのようにあやふやで、立って歩くことなど できないだろう。
舟で流れついた赤子の神は、父神や母神とはことなるやりかたでこ の常世をおさめようとしたのだろうか。
せめてそのみなもとが呪いではなく祈りでありますように。
胎をいためずとも心をいためるのが母であり父であるのだから。
こいねがういのりをきいてききいれる天帝のくだす金色の果実。
糸しい糸しいと言う心を戀とよび、こいねがうこころを戀とよぶな ら、この想いはこの国で実を結びつづけるだろう。
彼は台補顔負けの重々しいため息を吐いてこう宣言する。
「主上は本日これよりえすけいぷなさる」
呆気にとられた顔をひとつひとつながめわたし、短く続けた。
「これにて解散!」
「みんな行った?」
「そのようですが」
壁のように巨大な衝立のかげ。ほどこされた彫刻に指をあてながら
みずから暇をとろうとしない冢宰をすこし休ませたい。主の言葉に
「主上」
「わかっている。こんなことをすればかえって浩瀚の手を煩わせる
「おわかりならどうして」
「手は打ってある。浩瀚も今日はあきらめて休むしかないだろう」
「なにもこんな官たちを騒がせるような真似をなさらずとも」
「おまえのそういうところだよ」
こちらをふり返った主は思っていたよりも真剣な顔をしていた。
「わたしたちは真面目すぎるんだ。もうすこし肩の力を抜いていか
「雁から賓客がいらしたとは聞いていませんが」
「大恩ある隣国の王だぞ」
言いながら笑っている。上気した頬が町娘のようだ。
「景麒もまだまだだな。遠甫だよ」
一瞬だけ息をのむ。驚きよりも納得のほうがいくらか強い。
「本当をいうと、これはわたしへの課題なんだ。官たちを出し抜い
「なるほど」
たしかに太師の言いそうなことではある。そしてその課題へ大真面
「あ、いま笑ったな?おまえも一蓮托生なのに」
「もちろんです。わたしはあなたの半身なのだから」
こんな朗らかな気配も王気のうちだろうか。とまどいと誇らしさが
「そろそろ使令を戻しても?」
王としては驚くほど簡素とはいえ、折衝上手な女史が丹精した装束
「まだいいよ」
言ってふり返った主の頬がまだすこし赤いのは、ここまで走ってき
「わたしたちもすこし休もう」
見返した目がかすかに揺れて、ようやく景麒は理解した。自分の主
「これは失礼を」
「いちいちあやまるな。かえって恥ずかしい」
言いながらまたいざり寄る。もう距離と呼べる隙間はなかった。こ
「触れても?」
「訊くな」
承知とばかりに懐の中まで迎え入れる。休息はもちろんこのかたに
たたんでいた膝をくずして壁に背をあずけると、両足のあいだに主
あらためて背に腕をまわすと、花を手折るようにやすやすとその身
王のゆるしを得た麒麟はつよい。背なをなであげた手は主のしなや
はじめはただ触れるように、言葉ではなくしぐさで訊く。落ちてく
もういちど迎えにいく、今度はもうすこし奥まで。くりかえしくり
「主上。使令を戻してもよろしいか」
場所を変える必要がある。
今度は王も否とは言わなかった。
回復のはやい仙の体とはいえ、睡眠をおろそかにして務まるほど国
ふだんの堂々としたふるまいが嘘のようにおとなしくなってしまっ
膝のうえに揃えられた手をとり、隣に腰をおろす。頬にかかる髪を
主の手が景麒の襟元にかかり、もつれそうな指でくつろげにかかる
「どうぞそのままで」
言ってその手にわが手を重ねる。それは惜しくてもったいないこと
このようなときの作法など心得てはいない。おそらく主もおなじだ
いま起きていることはどうだろう。主の指が襟にかかり、あばかれ
景麒にとって己の意思とはすなわち天意である。そこに疑問の余地
王には王気があり麒麟にはそれがわかるという。それでは麒麟のこ
きめ細やかでしっとりとした感触がおいしそうで舌を這わせる。噛
制服を着ていたころが遠い昔のようだ。脱いでもいないのに大人に
迷子になりそうな心をみちびくように景麒がふれる。指で唇で、首
周辺でとまどっていた景麒の指がやっと心を決めたようだ。ほんと
感触をたしかめる指の腹、なであげられて息をのむ。どうしてこん
それからまた気の遠くなるような時間をかけて景麒のすべてを迎え
まどろみの中で祖母の声を聞いた。
―あなにやし、えをとこを。
―あなにやし、えをとめを。
なぞめいた言葉の響きには覚えがあった。絵本だ。
―まあ、なんていい男でしょう。
―おお、なんといい娘だ。
天まで届く柱を巡り、出会った男女はそう語り合う。これは国生み
―それじゃあだめだよ。
―そうだね。順番が逆だ。
幼い自分と懐かしい祖母の声がする。
おばあちゃんの顔が見たい。そう思うのに見えてくるのは絵本の古
―生まれてきた子は三年たっても足が立たなかった。男神と女神は
―自分たちの子どもなのに。
流されたのは舟だったのか。あちらからこちらへくるのだから、卵
―あなにやし、えをとこを。
ふわりと目が覚めた。
いつのまに着せかけられたのか。袖は通していないものの、肩と胸
「わたしからだった、おまえのもとへ行ったのは。呼ばれたからじ
言うとすぐに目をあけた。眠ってはいなかったのだろう。
「なにがです?」
「はじめてのときだよ。こういうことの」
いきなりなにを、という顔をする。表情豊かになったものだ。
「来てくださったのはあなたからでした。けれどもそのあとはわた
「そうだったな」
どうでもいいことだ。今までは気にすることもなかった。
「古い古い物語を思い出したんだ。こちらでもあるのかな。この世
真摯にこちらをみつめる紫の眼が美しい。雨の朝の露草の色だ。ま
雑誌を広げて指差してはさざめきあう級友たちの姿を思う。かつて
「男神と出会った女神は言うんだ。なんていい男だろう。めでたく
紫の双眸がわずかにすがめられる。けれども口を挟まないのは、待
「ふたりにお伺いを立てられた天はこう応えるんだ。先に声をかけ
それがどうのと言い出すつもりはもとよりない。自分たちがこうし
「里木に祈れば子を授かる。それなのにどうして抱き合うんだ?」
生殖に必要のない衝動がどうしてこの身に宿るのだろう。陽子はそ
憮然とした表情、取りつく島のない話し方、平坦で感情をうかがわ
あるとき無駄のない頬の線がほんのすこしゆるんだ。視線を追うと
またあるときは眉間にあさいしわをよせて茶器をかたむけている。
そんなささいな変化に気づいたら面白くて、いつのまにか観察する
知ってみればこれほど豊かな情感を持つ生きものは他になかった。
陽子は撫でていた指を頬からくちびるへと移し、薄くてやわらかな
「あなたは子どもがほしいのですか?」
「そういうわけじゃない。ただ気になっているだけだ」
あちらでつちかった倫理観がいたずらをしているだけなのかもしれ
「子を成せないのはわたしたちだけではありません」
「そうだな」
それに気づかない陽子でもない。
「けれどもこうしていると、そんなことよりも大切なものがあると
言葉とくちづけが交互に落とされていく。しずまったはずの水面に
―でもね陽子。流された神様はそのあと常世へ辿りついて、そこを
―常世って?
―天国のようなものだろうかね。
ぜんぜん天国じゃなかったよ、おばあちゃん。あちらとそう大して
だんだんものを考えるのが億劫になってくる。からだは熱を思い出
「もう一度触れても?」
訊いてくる声もいっそ彼らしくていとおしい。
「ここでやめたらおしおきだ」
笑ってその背に腕をまわす。背骨の数をかぞえるように撫でてやる
―あなにやし、えをとこを。
こんなに可愛らしい男がいたら、女神だって思わず声をかけるだろ
舟で流れついた赤子の神は、父神や母神とはことなるやりかたでこ
せめてそのみなもとが呪いではなく祈りでありますように。
胎をいためずとも心をいためるのが母であり父であるのだから。
こいねがういのりをきいてききいれる天帝のくだす金色の果実。
糸しい糸しいと言う心を戀とよび、こいねがうこころを戀とよぶな
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