古典いろいろ 2

祇王・仏 京の絵本
村中 李衣 梅原 猛 詳細 「京の絵本」刊行委員会
文章は整っているものの、語るには一文が長く文章量も多め。絵ははじめ明るすぎるように感じ、無常を悟り出家する女たちの物語には不似合いに思えた。内容は「平家物語」で既読の部分。今回は清盛の横暴よりも、祇王の母親を身勝手に感じて苛立った。けれど語られない出家後は、妄執から解き放たれた女四人で案外平穏に読経の日々を送ったのかもしれない。そう思えばこの画面の妙な明るさも少し違って見えてくる。過去帳の下りを読み清盛のその後を思うと、一足先に尼となって俗世を離れた彼女たちこそが賢かったのだと思えてくる。

千年後の百人一首
清川 あさみ 最果 タヒ リトル・モア
触れるその時々で好きな歌が変わり、振り返って自分の変化を知る。どんな時代も変わらずに在り続ける百人一首の偉大さを思う。この本で惹かれたのは47「八重葎しげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり」恵慶法師。誰も足を踏み入れたことのない奥山に塗り込められたような一面の紅葉、そこには歌人の目も届かない。歌意からは外れるけれど、そんな凄絶な景色を想像してしまう。清川さんの作品は印刷だと糸の艶やビーズのきらめきが埋もれてしまう、けれどそこに最果さんの言葉が乗ると、不鮮明さは薄紙越しの柔らかな鷹揚さになる。

西鶴名作選
井原西鶴 古川書房
好色五人女、好色一代女、日本永代蔵、世間胸算用より数篇ずつ、現代語訳のみ。地元図書館では選ぶ余地なく借りた本だが、歯切れのよい訳文が読みやすく、大変面白く読了した。駆け落ちや姦通などの恋愛事件を扱う五人女では、詳細を知らずにいたお夏・清十郎の顛末を読めたことが嬉しい。一代女は色道に生きた女性の回顧録。永代蔵と胸算用は町人たちの懐事情を書いたもので、節季ごとの掛け回収や年越し準備など、事細かに描出された江戸の人々の生活風俗が興味深い。日本商人は不誠実で中国商人は実直だというくだりが印象的で、偏見を恥じた。

新訳 説教節
伊藤比呂美 平凡社
楽しかったー!伊藤さんの説経節、まだまだ読みたい。現代語訳制覇をお待ちしています。収録三作では小栗判官はタイトルだけ、しんとく丸は折口版と寺山版を既読(別物!)、山椒太夫は筋を知っている程度。どれも勧善懲悪の大衆向けで、お約束満載なのにふしぎと飽きない。演者の語りを人垣の後ろから覗き込むような臨場感。小栗や安寿の不運を嘆き、照手や乙姫の逞しさに舌を巻く。道行の地名羅列の名調子、決まり文句の心地よさ。ああこれを読むのではなく聞けたなら、無理ならせめて原文には当たってみよう。お次は「かるかや」、楽しみです。


旧怪談 耳袋より
京極夏彦 角川書店
「耳袋」(根岸鎮衛、天明〜文化)収録の奇妙な話を、「新耳袋」(木原浩勝・中山市朗、1990)ふうに書き改めた本、35篇収録。カタカナ言葉が散見されたり人名がイニシャル表記だったりと、新耳袋(実話怪談)ふうの作法をとりつつも、語り口はお馴染みの京極節。併録された原文はどれも端的で短く、読みやすくはあるが面白味は少ない。この再話の腕は「遠野物語」でも感じた通り、本書も抜群に読み応えのある仕上がりになっている。印象的だったのは「プライド(巻ノニ、義は命より重き事)」。短絡ながら、子どもが哀れでならなかった。

ギケイキ 千年の流転
町田康 河出書房新社
絶好調町田節につき、極度に口語を究めた現代語訳なのか著者による再話なのかは判りかねるが、読んでいて脱力するほど楽しいことは間違いない。そもそも本家本元の義経記自体が伝記ではなく伝奇なのだし、本書程度の振り幅を受け入れる土壌ははなから備わっていたのかも。義経を日本武尊に、頼朝を景行天皇に重ねてその悲劇の英雄ぶりを愛でてきた私には、このブッ飛んだ町田義経は、語り直しによる慰霊と鎮魂の賜物かと考えずにはいられないけれど、それはさておき物語は二巻へ。静御前の登場と佐藤兄弟の活躍が、楽しみなような怖いような。

ギケイキ 2 奈落への飛翔
町田康 河出書房新社
本作を映像化するならキャストは、またはキャラデザは誰を、と考えてみる。相変わらずキャラ立ち凄いわあ、と不細工ファンシーな弁慶に胸をざわめかせながらも、次巻で語られるであろう静御前や腹の子のその後などを考えるにつけ、このノリの軽さを有り難いと感じるのも本当。そうでなければ受け入れ難い展開が、今この活劇&会話劇を盛り上げている面々に降りかかるのかと思うと少し複雑。現代日本を生きる義経が振り返る生前のあれこれ。この構図の面白さに期待したいのは、現代感覚からのツッコミよりも、物語収束後に義経が向かう先である。

隅田川 愛しいわが子をさがして 能の絵本
片山清司 BL出版
愛しい我が子の身に何かあったらと、考えたことのない母親はいないだろう。そしてそのこと以上に、考えたくもない惨事はない。いっそ本当に狂えたなら楽になれるのかもしれない、けれど梅若丸の母は違った。舟頭の戯れに即興で見事な歌を返すほど冴えていた、彼女の目を思うとやるせない。添えられた画がまた素晴らしく、悲しみにやつれた面ざしとそこに宿る一筋の望み、そのアンバランスな美しさが強く胸に残る。物語の後の世で、女物狂いは本物の狂女となれたのか。いややはり、彼女は最期まで正気のまま息子の菩提を弔ったのだろう。

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