邂逅


かいじゅうたちは ないた。

「おねがい、いかないで。おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ。たべてやるから いかないで。」

モーリス=センダック作
神宮輝夫訳
冨山房
「かいじゅうたちのいるところ」


夜着の襟が音もなくすべり落ちていく。あらわになった肩は娘のまろさというにはややかたい。
―今夜は風が強い。
ひくめた声で男が言う。吐息のように静かな声。
―卵果が流されないといいが。
返す声は娘のもの。闇に溶け消えそうなささやき声。
流される雲がひとときふたりを懐に入れ、またすぐに放り出していく。
下ろされた帳は紗が一枚。かたかたと鳴る玻璃戸ごし、月明かりはどこまでも気まぐれだ。
―蝕ではないかと。ご案じなさいますな。
―そうだといいが。
沈黙。ややあって、
―触れても?
―もう触れている。
今度はひそめた笑い声。
お訊きしていなかったので、とどこか憮然とした男の声。
―いいよ。おまえなら。
たまには好きにしてみてよ、という娘の声は複雑な色。
あきらめのような、あこがれのような、やさしさのような。
―そういうわけには。
とは言いながら、いつでも男は好きにしている。
男は麒麟、娘は王。麒麟が王に触れるやりかたを、好きにすればいたわりになる。
若い女王はそれがすこし不満だが、だからこそ愛しさは増す。いたわりのしぐさは熱を持つ。
寝台に腰かけた影がふたつ、それがひとつに重なって倒れる。極上の寝具は底なし沼となってふたりをのみこむ。その間ふたりはお互いをのみこんでいる。
沼の底には魚がいる。遠目には星にしか見えない光る魚。
おわりのない時を過ごすふたりの、つかのまのなぐさめの夜。

理不尽にたわめられていたとは思わない。こちらでの姿が本来の自分で、あちらでの姿は間違っていた。そんなふうに言うつもりはない。
ただ不満と疑問はいつも抱えていた。抱えながらあきらめていた。
こうあるべきと示される姿が、陽子にはいつも窮屈だった。けれどもそれに耐えていれば当面は安泰だった。叱られずにすみ、叱らせずにすむ。仲の良い親子でいられる。
幼いころ人魚姫が好きだった。お姫さまの本だから母親も笑顔で与えてくれた。陽子とて泡となって消えるさいごのページはさみしかったが、添えられた絵の中の海に魅了された。
同じころかいじゅうたちの出てくる絵本も好きだった。こちらは保育室のすみで、隠れるようにして抱えて読んだ。あちらはいいけどこちらはだめ。幼くてもなんとなく理解していた。
「本は好きでよく読んだよ。ここではないどこかへ冒険をする物語が好きだった。かいじゅうたちの絵本もそう。けれど本の中の登場人物たちは、いつも冒険が終われば家に帰る。昔はそれが不満だった」
マックスも、アリスも、ぺベンシーの子どもたちも。いや、ペベンシ―の子どもたちは最後の最後は帰らなかったか。
「ここへ呼び戻されることを心のどこかで望んでいた、そんなふうに言うつもりはないよ。ただ、わたしの冒険はどこから出発してどこへ向かっているのかと、考えることがある」
「あなたの誕生を里木に願った者がいるはずです」
「そうだな」
腕の中で聞く景麒の声はすこし湿ってあたたかい。陽子はこの半身に強く抱きしめられたことがない。いつでもゆるく閉じ込められるだけだ。開けようと思えばいつでも開けることのできる檻に、陽子は好きで居座っている。
「どんな人だったろう。探してみたい、会ってみたい、そう願ったこともある。けれどそのたび、あちらで別れた母の顔が浮かぶんだ
うしろめたいわけではないよ。そう言ってちょっとのびあがり、目を閉じて無言の催促。察しのいい麒麟は王の意を汲んでくちづけを落としにくる。それらをのこらず拾ってあじわって、満足するとまた話しだす。
「景麒。あちらではね、こういうことは、子どもがほしいふたりがするんだ」
こちらではちがうけれど。たとえ望んでも子は成せない。抱き合っても、木に願っても、王と麒麟の間には。
「わたしが流れ着く前にいた子はどこへ、」
陽子が迷子になる前に、察しのいい麒麟がつづく言葉をそっとふさぐ。出口をうしなった言葉が洩れてこないよう、からだのすきまもそっとふさぐ。なにもかもをそのまますっかりのみこむと、やっと満足して放す。
みると王は目を開けたまま夢をみているようで、ほどなく本当に眠ってしまった。

ふかくふかく沈んでいく。
ちいさな星が瞬いている。
カシオペアみたい、なぞろうとしたら星が動いた。
なんだ、魚か。それならここは虚海だろう。
虚海には妖魚が棲んでいる。
遠目にはちいさな星にしか見えないが、実際は艀をのみこむほど大きい。
光が近づいてくる。喰われる。
思ったところで目が覚めた。

ひかりの糸が頬にかかる。さらさらと触れて心地よい。朝日が形をもったみたい。景麒のたてがみが陽子は好きだ。
「そろそろ人が参ります。支度をなさってください」
この世でいちばん優しい看守が脱獄の時間をつげる。
身じろぎひとつしなくても陽子が目覚めると景麒は気づく。王気とはそんなことまで伝えるのだろうか。たまにはこちらが寝顔をながめてみたいのに、なかなかその機会はめぐってこない。
「おまえ、ちゃんと眠ってるのか?」
ぐずぐず居座っている腕の中から見上げると、後悔したくなるような微笑が返ってきた。ああこれは眠っていない、それもおそらく一晩中。
「どうももったいないようでいけません」
律儀に言葉にしようとするから陽子は赤面するしかなくなった。一体どちらが王でどちらが麒麟なのか、ときどきわからなくなるようだ。
かなわないな。そう思ったらなんだか悔しくて、仕返しをしてやりたくなった。
「景麒、転変して」
檻をぬけだして半身を起こす。生真面目な麒麟は目をそらし、引き寄せた夜着を王の肩へと着せかける。
「どうせ裸ならかまわないだろう。転変して」
勅命である、と言わんばかりの王の言いに目を伏せて、それでも否と言う気はないらしい。
一瞬ののち男は姿を光に溶かし、やがて優美な獣の形をとる。白金の体毛を朝日にふちどらせたさまは、神獣の名にふさわしい。
「すぐに人が参りますよ」
吐息のひびきで獣が言う。陽子しかしらないあまいあまい声。
「わかってる。すこしだけだよ」
言って裸のまま寄り添う。ふれる肌のすべてがよろこぶ感触の柔らかさ。その奥にあるいのちのぬくもりに触れたくて、陽子はそっと腕をまわす。
まろい鼻先が優しく応える。唯一そこだけ感触の変わらないたてがみを、惜しむように指で梳く。何度も何度もそうしてやる。
しばらくそうしているとどこからともなく声がひびいた。
「主上、女御が参ります」
まったく使令とはこんなときまで忠実なものだ。
ため息をついて身を離した。

窓から差しこむ日がだいぶ傾いてきた。
景麒は手にしていた書き付けから顔を上げると、つかれた眼をかるく揉む。
神獣といえど、夜どおし起きていた次の日はさすがに快調とはいかない。それでも寝ずの番を決め込んだのは、たんに主の寝顔に見入っていたからではなかった。
手元の紙束は景麒自身がまとめたもので、公式の書類ではない。気がかりはその内容ではなく、そこに附された日付だった。
景麒は西日の差す玻璃戸をふり返り、庭にうずくまる人影をたしかめる。
決してほかの何者かと見まちがえることのない唯一の主、彼の王がそこにいる。

雀胡、と呼ぶとひょこひょこと跳ねてくる姿が可愛らしい。これもれっきとした妖魔だが、黄海よりも屋台の客寄せのほうが似合いそうだ。
どうしたことか執務に身の入らぬ陽子を気遣って、すこし息を抜いてくるように言ってくれたのは冢宰だった。それを聞きつけた景麒が顔を出し、この雀胡をあずけてくれた。
たしかにすこし疲れていた。話し相手にならない雀胡の存在がありがたい。
ちいさくあたたかな生きものが、こちょこちょとくすぐる自分の指を受け入れている。それだけでなにか体の芯がじんわりと熱くなる
「でもおまえも使令のはしくれ。いつか景麒を食べるんだろう」
じゅう、と案外ひくい声で雀胡が鳴いた。よく見ると顔つきもそれなりに野趣があり、このまま大きくなれば怪獣と言えないこともなさそうだ。
その連想に引き寄せられ、ふるい記憶がよみがえる。
「おねがい、いかないで。おれたちはたべちゃいたいほどおまえがすきなんだ。たべてやるからいかないで。」
大好きだった絵本の、かいじゅうたちの最後のせりふ。
「おまえはいいね。景麒だって。わたしは誰からも食べられない。誰を食べることもない」
なんだかそれはひどく寂しいことのように思えた。
「おまえは弱くてちいさいから、きっと小指の爪くらいしかもらえない。だったらその前に、わたしのことを食べてくれないか」
理解しているのかいないのか、ちいさなかいじゅうは、じゅう、と一声だけ鳴いた。

虚海を見せてくれないか。主がそうつぶやいたのは、その夜のことだった。
今夜もまた風が出ている。玻璃戸ごしには寒くもないが、きっちりと着込んだ夜着の上に、さらに上掛けをひきあげる。
そんなにいらないよ。そう言って笑った主の眼がすきとおるようにきれいで、景麒は妙な胸さわぎをおぼえた。
「虚海を見せてくれないか」
ふいに笑いをひっこめて主が言った。
見せてくれないか。連れていってくれないか。今すぐに。
「―お待ちを」
愛しいぬくもりの隣をぬけだし、景麒は紗のかかった玻璃戸の前にすっと立つ。
今夜は解くつもりのなかった腰紐に手をかけ、そのままするりと脱ぎ捨てる。
着物が床へ落ちきる前に、この世でもっとも脚の速い神獣がそこに立っていた。
かなわないな。
やっぱりおまえにはかなわないよ。
陽子は泣きたいような気持ちをおさえ、黙ってこちらをみつめる紫の瞳に笑いかける。若い牡鹿のようにしなやかな首に腕をまわし、その頬にじぶんの頬をあて、あるかなきかの礼を言う。

一瞬ののちに陽子はすべての憂いを忘れた顔で騎乗して、開け放たれた玻璃戸から月の下へと滑り出ていた。

まんまんと湛えられた水はおそろしく澄んでいるのに、底を見とおせないのは、空に天井がないのとおなじこと。虚海とよばれる海には深さがない。
蓬莱には星の井戸という言い伝えがある。深く深く掘られた井戸は昼なお暗く、覗きこめばいつでも星が映っているというのだ。ならば虚海に棲むという妖魚は真昼の星の仲間だろうか。
いまもひらめくように光をふりまき一匹の妖魚が陽子の前を過ぎさった。

その魚は気の遠くなるほどの時をたった一匹で生きてきた。
ふるいふるいむかし、誰かと約束をもった気がする。けれどそれも永いこと思い出せずにいた。
はてのない海にはどんな神の光も届かない。常世でも蓬莱でも崑崙でも、水底には水底だけの理があった。
魚は妖魚のなかでは卵のように小さかったが、どんなに大きな魚よりも歳かさだった。両の眼はとうの昔に光を失い、肌は鱗か皮かわからぬほどぼろぼろに傷んでいる。それでも呼吸と鼓動だけは忘れなかった。
たまに思い出しては口をあけ、何か入ってくるとそれを飲み込んだ
生きているということを忘れるくらい永い時を生きていた。

ひとつひとつはそれぞれべつの星なのに、つなげて星座を見てしまうのは、そこに物語をよんでしまうのはなぜだろう。
卵果の陽子が押し出してしまったかもしれない母の赤ちゃん。
生まれることのない陽子の子ども。
いたのかも、いるのかもわからないふたりを、惜しんでしまうのはなぜだろう。
子がほしいと思ったわけではない。ただ、はじめからとりあげられているようで悲しかった。
王として民を子と想う気持ちにうそいつわりはない。不満もない。ただ、いのちのめぐる速さのちがいが悲しかった。
わたしはまにあうだろうか。
川に堤を、畑に水路を、山に道を、病に薬を。
王の一年と民の一年、その流れの速さと重さのちがいが悲しくてしかたがなかった。
おのれに恥じないよう、半身に恥じないよう、民にも官にも恥じないよう、陽子は必死にやってきた。そうして気がつけば五十年の時が過ぎていた。
わたしはまだまにあっていない。
ふり返るよりも目前にある道のりのほうがずっと長い。見とおせないほどの長さだ。
すこし、つかれてしまったのだと思う。

永い時を生きてきたものには、永い時を生きてきたものにしか見えないものが見えている。海と空が近づく夜、ごく浅いところまで浮かびあがっていた魚は、月明かりとはべつのまばゆい光を感じてとった。
なぜかひどくなつかしい心地がして、見えない眼を必死でひらく。瞼にぶらさがる虫の糸が縒られた涙のようにまとわりつく。
光はさらに強くなる。するどい歯をおもわせる白金と、燃え上がる夕陽をおもわせる紅。そうして魚は思い出した。とおいとおい昔、忘れていた誰かとかわした大切な約束。
―おまえ、一緒にくるつもりか?
魚にそう声をかけたのは貧相な陸の子どもだった。
―小魚の一匹くらい構わんだろう。連れていけ。
えらそうに言った陸の男はひどい姿をしていた。
魚はごくちいさな稚魚で、ふたりの乗る小舟に飛び込んでしまったのだった。
―どうなってもしらないからな。
言い放つ言葉とはうらはらに、魚を拾い上げた子どもの手つきは優しかった。
なにかつよくおおきな波、のようなものをくぐりぬけてふたたび放されたとき、子どもは金色に光っていた。そうして言ったのだった。
―どうにか無事についてきたな。もしふるさとに帰りたくなったら、おれを尋ねて雁までこい。おまえはただの小魚じゃない。ましてや妖魚なんかでも。おれを尋ねてこれたなら、必ずあの海へ返してやろう。
―これは、あのときの光だろうか。
魚はあまりに老いていたので、もう思い出すことができない。
光は自分を帰しにきたのだろうか。それとも迎えにきたのだろうか
こんなに老いても帰れるものだろうか。
帰りたいのだろうか、自分は。

陽子はおもわず身を乗り出し、黒い水に触れようとした。
とたんに腕をのばそうとした景麒は転変をとき、結果、当然のようにふたりして夜の虚海へ放り出された。
すかさず拾いあげてくれたのは芥瑚。
「お気をつけください。夜の虚海は危のうございます」
芥瑚の小言はしかしどちらの耳にも入らない。
「景麒、聴いたか」
「はい。主上も聴かれたのですね」
「妖魚とは言葉を話すものなのか」
「聞いたことがありません。おそらくわれわれが神籍にあるため聴き取れたのかと」
「そうか」
おおきな魚だった。おそらく、おそろしいほどの昔からここに棲んでいるのだろう。ふるいいのちのにおいがした。
「激励する、と言っていた。あれは虚海の神だろうか」
「そうかもしれません」
「すごいものに出会ってしまったな」
「はい」
めずらしく頬を紅潮させた半身に、陽子はふっと笑って言った。
「ところでおまえ、こんなところでその姿はないんじゃないの」
転変をといた景麒はもちろん裸なのだった。
「失礼つかまつる」
言ったときには獣の姿に戻っていた。

金波宮へのみじかい帰路、陽子はひさしぶりによく喋った。
自分が追いやったかもしれない母の子ども。
生涯抱くことのない自分の子ども。
施政への焦りとやるせなさ。
使令に食べられたいと思ったことも。
けれど口ぶりは落ち着き、翠の双眸には生気が輝いている。
もう大丈夫だろう、この山の峠は越えた。帰って冢宰に報告してやらねば。きっとこの夜の後処理は彼がやってくれたに違いないのだから。
景麒は風の足場をたしかめて、ついと空をすべるようにはしる。眼下に懐かしい灯りが見えてきた。松明の炎が冷えた体にあたたかそうだ。

夜の虚海を魚は泳ぐ。
ふたりの若い神はもう行ってしまっただろう。
自分は老いた。あのときの子どもと男も老いただろう。

去りゆくものから生きゆくものへ激励を送る。
これは海の神からの言付けである。
存分に生き、そして楽しめ。
去りゆくものから生きゆくものへ、ただ一度の激励を送る。








【ニシオンデンザメ】
ツノザメ目の最大種で、最大体長7.3メートル。
既知の脊椎動物としては最も長寿であり、放射線年代測定法によって推定された最も高齢な個体は272〜512歳であった。(引用元Wikipedia)

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